2017年2月11日(土)、第九特別演奏会はおかげさまで盛況のうちに終演いたしました。
ご来場いただいた皆様、関係各所の皆様には御礼申し上げます。
今回は、演奏会で配布したパンフレットに掲載した曲紹介を公開します。
当団の団員が力を入れて作成しまして、パンフレットにしてはかなり読み応えのある内容となっております。今回は途中までご紹介いたしますので、ぜひご覧いただければと存じます。
交響曲第9番 Op.125 「合唱付き」
近衞秀麿編曲版について
1. はじめに
当団は今まで近衞秀麿編曲版を用いてベートーヴェンの交響曲第7番(第3回演奏会)、シベリウスの交響曲第2番(第4回定期演奏会)、シューマンの交響曲第3番第「ライン」(第7回定期演奏会)の演奏をしてきた。その都度、近衞秀麿版についての紹介をしていたものの、なぜ秀麿が編曲していたかまで触れることまではできていなかった。
今回は秀麿が編曲に特に力を入れ、かつ編曲を要した《第九》の演奏会に取り上げる機会にあわせ、編曲の歴史的背景を知ることにより、秀麿の編曲に対する情熱の源泉を少しでも明らかにしたい。
2. ベートーヴェンの交響曲演奏
ベートーヴェンは、当時まだ娯楽音楽に近かった交響曲の作曲に力を入れ、常に新しい手法を試みることで管弦楽における新たな表現の可能性を模索し続けていた。それは、ハイドンが108曲、モーツァルトがおよそ50曲の交響曲を書き上げたのに対し、ベートーヴェンがわずか9曲しか作曲していないことからも、1曲1曲に情熱を注いでいたことが明らかである。
あくなき表現の探求の末、やがてベートーヴェンの楽想は、しばしば当時の楽器の性能を超えることとなった。当時の楽器では演奏不可能のため、やむを得ず急にメロディから外れるなど、演奏を一部休ませたり音を1オクターブ低くするといった対処がされた箇所が見受けられる。
こうした、ベートーヴェンが当時の不自由な楽器の制約の中で作曲した楽曲を、近代のオーケストラでどう演奏するかというテーマは、ワーグナー以来の問題となっていた。
近衞秀麿が活躍した戦前のヨーロッパは、後期ロマン派が円熟しきった時代である。当時は大作曲家がやむを得ず断念した表現を、楽器の性能とオーケストレーション1の技術向上によって、原曲の美しさをモノクロからカラーへと引き出すことが指揮者の教養かつ求められていた能力であり、正義とされる時代であった。秀麿はヨーロッパ留学からの帰国後においても、その時代の命題・姿勢を貫くこととなる。
3. 第九の抱える楽譜の出版上の問題
第九の楽譜には多くの疑問点があり、作曲者の意図なのか誤りなのかが不明な箇所が散見される。これは、楽譜資料が膨大な量にのぼることが要因の一つである。ベートーヴェンの自筆スコア、各楽器のパート譜面の印刷底本となった写譜師による筆写譜、プロイセン王に献呈した筆写譜等々、所蔵されている場所も異なる。更に、ベートーヴェンが悪筆であったことや、略字が多く使われていたこと、狭いスペースに強引に書き込まれていたり、時間的に切迫していたことから、出版譜には自筆譜から写す際に写譜師によって大量に生じた誤写が反映されていた。1826年にショット社から出版された後、1996年にベーレンライター社から批判校訂版が出るまでの170年にわたり、歪められた記録による楽譜が使われていたのである。
これらのことから、第九の楽譜には当時の楽器の技術上やむを得ず対応したであろう箇所と、出版上のミスという異なる2つの問題点を抱えていることが明らかとなる。
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それ故に、百年来今日までの真に偉大な指揮者達は如何にして、ベートーヴェンの精神に、その意図に忠実ならんかに腐心しきったのだ。如何なる手段の改善によって、その不朽の楽想の中に「劇的」なものを掘り当て、その詩を生かすべきかの研究と精進に、今日に至るまで不断の努力がなされて居るのである。門外漢は何故にそんな努力が必要かをいぶかしく思うかもしれない。
〜〜 近衞秀麿(1950)『わが音楽三十年』改造社
当時の「真に偉大な指揮者達」は、自ら資料を研究し、細かい齟齬に対し、自らの答えを導き出すことで対処し、各々のエディション(編曲版)を作り上げていた。そして、近衞秀麿が自ら編曲したものが、近衞版と呼ばれることとなる。
1. [「管弦楽法」ともいう。音楽上のアイディアを、最も合理的かつ効果的な方法で管弦楽団で表現する手段。(伊福部昭)]↩
今回はここまでです。続きはまた後日ご紹介いたします。
どうぞ、お楽しみに。