交響曲第9番 Op.125 「合唱付き」 解説その②

今回は、《近衞版》第九について、少し踏み込みます。

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4. 《近衞版》第九
近衞秀麿は、第34・38・39代総理大臣である近衛文麿の弟にあたり、戦前からヨーロッパへ渡り、西洋音楽を学んだ最初の指揮者の一人である。新交響楽団2や東宝交響楽団3を立ち上げ、日本におけるオーケストラの普及に尽力した。
ヨーロッパに留学していた1930年11月、秀麿はフルトヴェングラーとベルリンフィルのリハーサルを聴き、フルトヴェングラーと言葉を交わしている。秀麿は、フルトヴェングラーの指揮したシューマンの交響曲第四番に最大限の賛辞を呈し、フルトヴェングラーは、「シューマンの立派な管弦楽曲は、最も不幸な状態のまま放置されている」「我々は各自我々自身の改編を有っているべきだ。」と答えた4。秀麿は、まさにこの時フルトヴェングラーの指揮棒の魔術の一端を見つけた。身振り手振りのみではないのだと。以後、秀麿は生涯編曲に力を注ぐこととなる。

《近衞版》は、近衞秀麿が演奏会を行う度に手を加え試行錯誤され作り上げられたものであり、同じ楽曲においても、様々な《近衞版》が存在する。
特にベートーヴェンの交響曲は全曲に手を加え、その中でも第九は生涯をかけて研究の歩調を緩めることはなかった。《近衞版》の第九のスコアには1946~1962年と記されており、パート譜や販売されているCDの録音とも細部が異なる部分があることからも、常に推敲を重ねていたことが伺える。
《近衞版》もワインガルトナーの影響を色濃く受けており、多くの部分でその指摘を採用している。全体的な特徴を挙げると、フレーズへの細かなクレッシェンド・デクレッシェンドの指示、音量記号の追加、盛り上がり所で埋もれがちな木管のフレーズを倍の人数の木管楽器で演奏したり、弦のフレーズの輪郭を明確にするために木管楽器を重ねたり、更にはホルン6本にメロディを追加する箇所などがある。4楽章のチェロ・コントラバスにより演奏される印象的なレチタティーヴォにはヴィオラも重ねられており、さらに重厚となっている。いずれも曲のフレーズ感やメロディを浮き立たせる様な工夫をしていることが見て取れる。

一方、フルトヴェングラーやトスカニーニ、生涯の師エーリヒ・クライバーの使用したスコアを写譜・管理していた秀麿ならではの工夫された仕掛けも施されている。ここでは顕著な例を2つあげたいと思う。第一は、1楽章展開部の192小節目から始まる1stオーボエを中心とするカデンツァにおけるリタルダンドを削除し、2/4拍子を3/4拍子として1.5倍の音価にすることで対処していることである。これはリタルダンドの解決方法として採用されたのではなく、むしろ次の小節のa tempoの解決方法として取り入れたと解釈することが妥当であろう。このカデンツァは大変表情豊かなフレーズであるため、しばしばそのセンチメンタルさを引きずりa tempoが見落とされがちであることをワインガルトナーが指摘している。このことに対し、秀麿はリタルダンド部分を設計し直すことで、構造的にa tempoせざる得ないように作り上げた。音楽評論家の宇野功芳は、この部分に対し「流石にやりすぎだ。」と言及している。確かに若干システマチックな感も否めないが、リタルダンドの解決としか解釈しなかったのかもしれない。第二に特徴的なのが、終楽章の終盤に差し掛かった二重フーガ部分の金管楽器パートの改編である。原典では部分的に音が歯抜けになっている箇所がいくつかあり、これは当時の楽器で演奏が困難だったため省略されたと考えられる。この抜けている音をどう対処するかが問題視されていた中で、秀麿は単に音を補充するのではなく、大胆に全部書き直すことにより見事なオルガン・フーガへ仕上げている。
宇野功芳は、近衞版の第九についてこの様な批評をしている。

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(近衞版は)《無理をしなくても鳴る様なオーケストレーションの改訂》なのである。だから、《近衞版》を使って、見境なく力演するととんでもないことになる。ティンパニなど、雄弁すぎてベートーヴェンではなくなってしまう。トロンボーンも同様。そうではなくて、吟味された音でまろやかに演奏すると最高に潤沢な響きが得られる。
(中略)
その良い例が「第9」で、素っ気ないほどの古典的解釈である。
(中略)
ギクシャクとたベートーヴェンの語法を自然なものに直す努力を傾けているのである。その適否については各人が考えて欲しいと思う。

~~ 宇野功芳「蘇る幻の名演」学研『近衞秀麿の世界』CDライナーノーツより

ワインガルトナーや近衞秀麿の修正に関する指示を見ると、しばしば「しかもベートーヴェン的な響きは少しも損なわれないですむ」という文言があり、ここからも作曲者に対する畏敬の姿勢が見て取れる。

 


2. [1926年に設立。NHK交響楽団の前身であり、近衞秀麿が初代指揮者を務めた]

3. [1946年に設立。東京交響楽団の前身であり、新交響楽団と同じく近衞秀麿が初代指揮者を務めた]

4. [「シューマンはオーケストレーションが不得手である。」としばしば議論となる。シューマンの交響曲第三番「ライン」にも近衞版が残されており、当団の第7回定期演奏会で取り上げ、好評を博した]

続きはまた次回、お楽しみにどうぞ。