“近衛版”とは

近衞秀麿は、総理大臣近衞文麿の弟にあたり、戦前から西欧へ渡り西洋音楽を学んだ最初の指揮者の一人です。NHK交響楽団や東京交響楽団の前身を立ち上げ、日本におけるオーケストラの普及に尽力しました。
近衞の手が入った楽曲を一般的に近衞秀麿編曲版、「近衞版」と称しています。オリジナルの楽譜と比べ、多くの近衞版では楽器が追加されています(反対に、小さな楽団でも演奏できる様になっているものもあります)。曲によっては管楽器が2管編成から4管編成になっているなど、現代の大規模なオーケストラに合わせて、また、楽器の性能向上にも考慮して手を加えている部分があります。
第7回定期演奏会で取り上げたシューマンの3番では、木管楽器が2管編成から3管編成に増補、ピッコロ、バスクラリネット、イングリッシュホルン、コントラファゴットが加えられ、金管楽器ではチューバが追加されていることで、オーケストラ中の最高音と最低音が拡張されています。

近衞版では随所に音量やテンポの指示が細かに書き加えられています。基本的なことを書き記してある箇所もあれば、表現意欲の表れにより書き加えられている箇所もあります。伸ばしている音は段々と小さく、上昇形には段々と大きく、フレーズの始まりと終わりの音量指示。時には譜面が簡略化されていたり、メロディーが異なる楽器に置き換えられていたりするところも見られます。音が薄くなりがちな部分にはハーモニーの追加や楽器での補強、曲の流れの中で自然に山場が作れる様なテンポの指示などが多々加えられています。
シューマンが好んで歩いたライン川沿岸を各楽章に当てはめるとすると、1楽章はローレライの風景、2楽章はコブレンツからボンへ、3楽章はボンからケルンへとつづく風景、4楽章はケルンの大聖堂、5楽章はデュッセルドルフのカーニバルの様子など……色彩感を押し出した近衞版では、ライン川の流れをより鮮やかに感じられます。

かつて、原典主義の朝比奈隆が「楽譜に手をいれるのはどうか。」と言ったのに対して、近衞は「あれは下手な指揮者が下手なオケを振っても、ちゃんと鳴るようにしただけですよ。」とこたえたという逸話が残っていますが、自身は近衞版を学生オケのみらずプロのオケでも生涯使っていました。
実際に近衞版の楽譜を前に演奏に取り組むと、基本的なオーケストラ演奏の教則本の様な印象を受けます。